「多様性とは、なんぞや」のこと。

近年「多様性」という言葉を目にしたり、耳にしたりすることが増えていますが

「多様性」とは一体なんぞや、と問われると、なんだかうまく答えられる自信がありませんでして。



「多様性の時代」なんて言われても、それってどんな時代よ?って感じで、分からないのです。



ただ、いろんなひとのいろんな発言がニュースになる中で、改めて考えてみると

もしかしたら、「多様性」というのは、性別とかジェンダーとか、そういうことに限らない話なのかもしれないなあ、なんて思ったりします。


たとえば、
人は何のために生きているのでしょうか、
なんてことを考えると

すごく難しいかったり、ちょーめんどくさい話になりそうですが

この答えって、人によって、ちょっとずつ違うと思うのです。


たとえば、
そういう、人によって、ちょっとずつ違うことを、ある程度、許容できること?
それもひとつの「多様性」なのかな?

ということを思ったりします。


道徳的に生きていくことを、すごく大事に考える人もいれば

生物学的に正しく生きていくことを重要視している人もいたり

何よりも生産性を重視している人もいるかもしれません


でも、そうじゃないひともたくさんいると思うのです。


道徳的に生きていくことよりも、もっと大事なことがある。

生物学的に正しく生きていくため、
生産性のために、生きているわけじゃない。


そういうひとも、きっとたくさんいる。


それらを選択できる自由がある。

その自由を認め合える、
認め合えないとしても、許容し合える。

というのも、「多様性」なのかもしれないなあと思います。



だから「多様性」という言葉が、性別やジェンダーとか、そういうことだけの話じゃないのかなあと思うところです。



僕が、
ここ数日、感じていることは

「多様性」という言葉を目にする機会や、耳にする機会が増えたのに対し、

なんだかその逆を行こうとしているようなことが多いような気がしています。



その一つとして

「コロナ対策のために、外国人と食事をしないようにしてください。」という呼びかけは、まさに「多様性」の真逆だと思うのです。





誰を好きになっても、何を好きになっても、別にいいじゃん。


ってことは、


同時に、

誰かを嫌いになる自由や、何かを嫌う自由も、認められるべきなのかもしれません。



女性が好きなひとがいれば、女性に興味がないひともいます。


同じように


スポーツが好きなひとがいれば、別に好きじゃないひともいます。

飲み会が好きなひとがいれば、飲み会に行きたくないひともいます。

音楽や演劇や文化芸術をものすごく必要としているひとがいれば、別にそんなに必要としていないひともいます。


そういうのを認め合えるのも、一つの「多様性」なのではないか、みたいなことを思ったりもします。



もしも、

「五輪のために、誰もが犠牲を払わなければならない」とするならば

オリンピックではないことに人生をかけているひとの自由を奪うことになると思います。


オリンピックに人生をかけているひとがいることも事実だと思いますが、オリンピックではないことに人生をかけているひとがいることも事実です。


オリンピックが、選手にとって、人生に1回しかないチャンスなら

それは、部活動を懸命に頑張っている学生にとっての甲子園や大会だって、同じことです。


片方の人生が尊重され、そのために、片方の人生が犠牲になる。

それを平和の祭典と呼ぶのならば、あまりにも残酷で不条理なものだなと感じます。


東京オリンピックの基本コンセプトのひとつにもなっている「多様性と調和」とは、一体なんぞや


実を言うと

「文化芸術は社会にとって必要だ」という言葉にも、僕は違和感を感じていました。


その違和感が、なんなのか、

ずっと分からなかったのですが


「文化芸術は自分たちにとって必要だ」が本当は適切なのではないかなと思い始めてきました。



文化芸術が、社会にとって必要だ、ということを認めてほしい


というより、


文化芸術が、自分たちが生きるために必要なものだから、救いを求めている。


なんじゃないのかなあ、と思ったりして。



それを、社会にとって、と言い換えたら

別に必要としていないひとの存在を無視しているような気がして、

それって違うんじゃないかなって気持ちになったりもして。


文化芸術を愛する自由もあるなら、愛さない自由も尊重されるべきだと思うし。

それを、社会という言葉にしてしまうと、何か強要しているようなニュアンスを感じてしまうのです。


これもまた、「多様性」という言葉と逆を行っているような、個人的にはそんな気がしています。個人的には。




あと、

本当に社会に必要なものなのだとしたら、それを訴える必要性はないと思うのです。


生きるために必要と言われている、「衣・食・住」のなかの「食」にあたる飲食店も、存続の危機になっているのに対し


「飲食店は社会にとって必要だ」と訴えるひとをあまり見たことがないのは

それは、多くの人にとって、当たり前の認識で、改めて訴える必要性がないからだと思います。



「文化芸術は社会にとって必要だ!」と言えば言うほど、

本当は必要とされていないから、そういうことを言わなくてはいけない状況になっているのではないか


という気持ちが個人的には強くなってきてしまっています。


大事なのは、社会にとって必要かどうか、

というより、このままだとヤバいんで、どうにか生きさせてほしいです、っていうことだと思うし


もはや、そこに業種は関係ないレベルになってきているとも感じます。





緊急事態なので、


様々な制限や我慢を強いられてしまうのは、ある程度、仕方がないことだと思います。


だけれども、

どんな状況になったとしても、軽視してはいけないものっていうのはあると思います。


様々な価値観や生き方や考え方や働き方を認め合えることが「多様性」なのだとするならば


「日本人」も「外国人」も

「アスリート」も「高校球児」も

「飲食店」も「文化芸術」も

「男性」も「女性」も「どちらでもないひと」も


誰もが生きやすい社会になったら、めっちゃ良いよねっていう理想を目指していかなきゃいけないのかなあと思うと、まだまだ難しいのかもしれません。

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